知多半島美浜町にある野間大坊は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公ゆかりのお寺です。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条氏が暗躍する頃からさかのぼること40年あまり、源平の合戦で平氏に敗れた源頼朝の父・義朝が、ここで命を落とすことになります。
この記事では、野間大坊に残る源義朝公の無念と源平合戦のその後、野間大坊に残る歴史スポット、御朱印と武将印、アクセスと駐車場ついてご紹介します。
源平合戦や歴史がわかると、見る目も変わって、面白くなりますよ。ぜひ、この記事を参考になさってくださいね。
野間大坊の血の池と源義朝の無念!
源頼朝(みなもとのよりとも)と言えば、「いいくに(1192年)作ろう!」と鎌倉幕府を開いた武将で有名ですよね。
(最近の教科書では、鎌倉幕府の成立は1185年で、1192年は頼朝が征夷大将軍になった年なんだとか。)
野間大坊には、源頼朝のお父さん・源義朝(みなもとのよしとも)のお墓があります。鎌倉幕府が開かれる前の悲劇の舞台が残されています。
源義朝の最期と源平合戦の歴史
平安時代末期、1160年に源義朝率いる源氏と平清盛が率いる平氏が戦った平治の乱で、源氏軍は負けてしまいます。
都落ちした義朝は、落ち武者狩りから逃れて、家臣の鎌田正清(かまたまさきよ)とともに野間(美浜町)へたどり着きました。野間を拠点とする、正清の妻の父・長田忠致(おさだたたむね)を頼ったんです。
長田忠致・影致(かげむね)親子は義朝たちを手厚くもてなし、先を急ぐ義朝らを引き留めました。
けれどもそれは恩賞欲しさの作戦で、長田親子は義朝を湯殿(風呂)に案内して、入浴中に襲撃し殺害。婿である正清もお酒を飲ませて殺害し、首を平清盛に差し出しました。
父親と逃げる途中にはぐれてしまった源頼朝は、捕らえられて伊豆へ流刑となります。平清盛は自分の娘が生んだ安徳天皇が数え年3歳で即位すると、後白河法皇を幽閉し、政治の実権を握りました。
後白河法皇の皇子が1180年に平家追討の命令を諸国の源氏に発し、それにこたえて源頼朝が挙兵、弟の源義経(みなもとのよしつね)も駆けつけます。
平清盛は味方がどんどん討伐されていく中、1181年に熱病で死去。1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅んで、源平合戦は幕を閉じたのでした。
野間大坊の血の池と源義朝公のお墓
野間大坊の東側に残る「血の池」は、討たれた源義朝の首を洗った池です。小さな池は、義朝公の無念の思いで真っ赤に染まったと伝わっています。
現在も国に一大事が起こると、池の水が赤くなると言い伝えが残されています。
源義朝公のお墓には、木太刀が山のように積み上げられています。
義朝公が湯殿で襲われたときに、「我に小太刀の1本でもあれば、むざむざ討たれはせん」と残した言葉から、たくさんの木太刀が奉納されています。
義朝公のお墓の周囲には、義朝公と同じく長田親子にだまし討ちで殺された鎌田正清とその妻の墓、池禅尼(いけのぜんに)の墓もあります。
源平合戦の落ち武者狩りで、13歳の源頼朝を捕縛した平宗清は、平清盛の継母「池禅尼」を通して、頼朝の助命嘆願をします。
死罪になって当然のところを流刑となった頼朝は、池禅尼の恩を忘れませんでした。池禅尼の息子・平頼盛(たいらのよりもり)は壇ノ浦の戦いの中で唯一生き残った平家の武将であり、頼朝から厚遇されました。
己の人生はいろんな人の人生と絡み合って、生かされたり殺されたり。源頼朝は父・義朝とはぐれたことで命を長らえて、平氏を滅亡させて鎌倉幕府を開くことを成し遂げたんですね。
長田親子のはりつけの松
源頼朝が平家打倒で立ち上がった時、頼朝の父を殺害した長田忠致・影致親子は、頼朝から「一生懸命働けば、みのおわり(美濃尾張)をくれてやる」と言われて、頼朝に味方し手柄を立てます。
平家が滅んだあと、長田親子は頼朝から「約束通り、みのおわり(身の終わり)を与える」と、松の木にはりつけにされ、「卑怯な真似をした者に、武士の刀を使うことさえもったいない」と殴り殺されたんだとか。
父親を敵方ではなく、味方であったはずの長田親子にだまし討ちで殺された恨みは、ものすごく深かったんですね。
ただ、長田親子は恩賞欲しさだけで義朝を殺害したのではなく、罪人をかくまうことで被る自分たちの身の危うさも天秤にかけた結果だったと思うんですよね。
まさか、源頼朝が平家を滅ぼして征夷大将軍になるなんて、思いもつかなかっただろうし…運命って、どこでどう変わっていくのか、わからないですよね…。
野間大坊から300mほどのところに、はりつけの松跡が残されています。
住所:愛知県知多郡美浜町大字野間田上50
電話番号:0569-87-1073
※御朱印あります。
はりつけの松跡
住所:愛知県知多郡美浜町大字野間松下105
野間大坊客殿に残る源義朝公最期の絵解き
野間大坊の客殿には、源義朝公最期の絵解き(屏風絵)があります。
尾張初代藩主・徳川義直が狩野探幽に描かせたもので、源義朝が平治の乱に敗れ、落ち延びた野間で、長田親子にだまし討ちで殺される様子が細かく表現されています。
住職さんの説明を聞きながら屏風絵を見ていると、その時の様子が視覚的に実感できます。屏風には、平氏を倒した源頼朝によって、長田親子が松の木にはりつけにされるところも描かれています。
客殿の屏風絵の拝観料は1人500円、靴を脱いで上がります。絵解きの解説は20分くらいです。
客殿は、豊臣秀吉が築城した「伏見桃山城」の一部を移築したもので、ご本尊は源頼朝の念持仏・開運延命地蔵菩薩(秘仏)が安置されています。
源頼朝がご本尊に祈願をして、平家を討ち、鎌倉幕府を開くという偉業を成し遂げたことから、祈願成就のご利益があるとされています。
平安時代や室町時代の不動明王や毘沙門天、阿弥陀如来立像が安置されていて、向かい合って座ると、なんだか目に見えないパワーが体の上に降りかかってくるような気分になります。
野間大坊に残る歴史を語る場所
源頼朝が造営させた大門
野間大坊本堂前にある大門は、1190年に源頼朝公が、父・義朝公の法要の際に造られたものです。塔や金堂、鐘楼、経堂など七堂が建立されました。
その後、1531年に兵火によって、大門以外の建物はすべて焼失、鎌倉時代の建築はこの大門だけになりました。
下の土台を見ると、倒れないか心配になるくらいボロボロに見えるんですが、よほど頑丈に組まれているのか、どっしりと参拝者を出迎えてくれます。
野間大坊の大御堂寺本堂
一般的に「野間大坊」の名で知られていますが、正式名は「鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)」、真言宗豊山派のお寺です。
野間大坊という名前は、徳川家康が1611年に参拝に訪れて寺領を寄付したときに、命名したんだとか。本堂は3度の火災で焼失し、現在の本堂は1754年に尾張藩の尽力で再建されたものです。
ご本尊は平安時代の勢至菩薩・阿弥陀如来・観音菩薩の「阿弥陀三尊像」です。すべて木造なんですが、金箔で体部分が覆われていて、きれいな光を放っています。
鎌倉幕府5代将軍寄進の梵鐘
鐘楼堂には、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)が寄進した梵鐘があります。建長2年の銘が残っていて、1250年のものだとすると、750年以上も前のもの!なんです。
戦時中の金属類回収令にも免れた、尾張地方の最古の梵鐘です。
鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣は、6歳で将軍になり、14歳で解任されて鎌倉から京へ追放されます。執権・北条氏が実権を掌握した政治がずっと続いていて、父である4代将軍・藤原頼経とともに北条家と対立したため、追放されたんですね。
表向きの名目だけで、何の権限もなかった将軍です。自分が梵鐘を寄進し、後世まで名が残されることを、本人は知っていたのか知らなかったのか、どうなんでしょうか…?
野間大坊に残る織田信孝の無念!
源義朝公のお墓の近くに、織田信孝(織田信長の三男)のお墓があります。源平合戦に全く関係のない織田信孝のお墓が、なぜこんなところに?って不思議ですよね。
本能寺の変で父・織田信長が斃れた後、清須会議で織田家の家督は信長の孫にあたる三法師が継ぐことが決まり、織田信孝は岐阜城(美濃)で三法師の後見人とされました。
その後、信孝は秀吉の天下人のような振る舞いに不満を持ちはじめます。柴田勝家が秀吉に対して挙兵し、近江に出陣すると、信孝も岐阜城にて挙兵しました。
けれども、柴田勝家は賤ケ岳の戦いで敗戦、城を包囲されて自害してしまいます。
岐阜城を包囲された信孝は、やむなく開城し、降伏。長良川を下って野間大坊まで退いたんですが、兄の織田信雄(おだのぶかつ)の命令で自害させられました。
父・信長の一家臣だった秀吉から受けた仕打ちに、悔しさと無念でいっぱいだったはずです。腹をかき切って自分の内臓をつかんで掛け軸に投げつけた、とも伝わっています。
お墓は、信孝が自害した場所(安養院の跡地)である野間大坊に残されています。
野間大坊の御朱印の種類は?
備忘録 2021 4/3#神社仏閣 #御朱印 #大御堂寺 #野間大坊 pic.twitter.com/34srhyd5uP
— nikuQ (@IKDCA0u3slY2kq7) April 4, 2021
野間大坊の御朱印は、客殿でいただくことができます。
- 大御堂寺ご本尊
- 野間大坊ご本尊
- 不動明王(東海三十六不動21番札所)
- 聖観世音(尾張三十三観音8番札所)
- 大黒天(南知多七福神2番目札所)
黄色地にお地蔵様、青地に兜が描かれた2種類のオリジナルの御朱印帳もあります。
野間大坊客殿では、御朱印のほかに野間大坊にゆかりのある武将たちの「武将印」もいただくことができます。(常盤御前は女性で武将ではないんですが、なぜか含まれています。)
- 源義朝
- 源頼朝(源義朝の子・鎌倉幕府初代征夷大将軍)
- 源義経(源義朝の子・頼朝の異母弟)
- 常盤御前(源義朝の側室・義経の母)
- 鎌田正家
- 織田信孝
- 水野守信
※水野守信は尾張藩士で、徳川家康のいとこ。尾張初代藩主・徳川義家の命により、野間大坊の住職はこの家系または妻の実家の家系から出すことになっていました。
住所:愛知県知多郡美浜町野間東畠50
電話番号:0569-87-0050
拝観時間:8:00~16:30
野間大坊のアクセスと駐車場は?
野間大坊の最寄り駅は、名鉄知多新線「野間駅」です。名鉄名古屋駅から、内海行で1時間ほどで到着します。野間駅には、特急・快速急行・急行・普通電車が停車します。
野間駅から西へ1Km、15分ほど歩くと到着します。
野間大坊の参拝者用無料駐車場は、東駐車場、正面駐車場、西駐車場の3か所あります。一番便利なのは正面駐車場ですが、どこに停めても、境内へはすぐの距離にあります。
田園風景が広がる中、案内標識もあちこちにあるので、迷うことはないと思いますよ。
>>野間大坊がある知多郡美浜町の観光情報はこちら【楽天たびノート】※情報が変更されている場合もありますので、公式サイトなどで最新情報をご確認くださいね。
さいごに
源平合戦のゆくえと源頼朝の父・義朝の無念、野間大坊に残る歴史スポットや御朱印、武将印、アクセスや駐車場についてお伝えしました。
長い歴史の中のひとときですが、その中で一生懸命生きた人たちの想いが、野間大坊に残されています。
義朝公最期の絵解きがある客殿の前には、枯山水のお庭の周りに四国四十八ヶ所のお砂が埋まっていて、お砂踏みすることができます。ゆっくり歩いて、強いパワーをいただいてくださいね。
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