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長篠城址史跡保存館のアクセスと入場料は?長篠城の歴史と鳥居強右衛門の手柄!

愛知県新城市にある長篠城址

愛知県新城(しんしろ)市にある「長篠城」は、現在の豊川と宇連(うれ)川の合流地点、三河と遠江の国境近くに築城されたお城です。

織田・徳川連合軍が武田軍と戦った「長篠設楽原(ながしのしたらがはら)の戦い」は、武田軍が奪われた長篠城を取り戻そうとしたところから始まりました。

この記事では、長篠城址史跡保存館のアクセスと入場料、御城印、長篠城の歴史と徳川軍による武田軍からの長篠城攻防戦、鳥居強右衛門の活躍と長篠の合戦の勝敗、現在の長篠城についてご紹介します。

戦国時代の戦い方が火縄銃によって大きく変わることになった長篠の戦い。その中で武士たちの命をかけた覚悟を知ることができますよ。

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長篠城址史跡保存館へのアクセスと駐車場は?

名古屋からJRまたは名鉄で「豊橋駅」まで行き、JR飯田線に乗り換えて「長篠城駅」で下車します。名古屋から約2時間ほどかかります。

長篠城駅を出たら左(西)へ、道路沿いをずっと歩いて行くと、10分ほどで長篠城址史跡保存館に到着します。

車の場合は、新東名高速道路「新城IC」から東へ、国道151号線を経由して、5分ほどで到着します。敷地内に無料駐車場があります。

長篠城址史跡保存館の入場料は?

愛知県新城市にある長篠城址史跡保存館
長篠城址史跡保存館
住所:愛知県新城市長篠字市場22-1
電話番号:0536-32-0162
開館時間:9:00~17:00
休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌平日)・年末年始
拝観料(税込):大人220円・小中学生100円
設楽原歴史資料館と共通券あり(税込) 大人440円・小中学生150円

長篠城址史跡保存館には、長篠の戦いの関係資料が展示されています。奥平家伝来の「血染めの陣太鼓」や武具・甲冑、長篠合戦図屏風は必見です。

長篠城の御城印と名城スタンプ

長篠城の御城印(御朱印)は、長篠城址史跡保存館の受付で購入することができます。

長篠城は日本100名城の46番に選ばれています。100名城スタンプは1階のトイレ横に設置されています。

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長篠城の歴史は?

愛知県新城市にある長篠城址史跡保存館

長篠城の歴史と戦いのきっかけは?

長篠城は1508年、今川家家臣・菅沼元成によって築城されたとされています。

城の背面は豊川宇連川で50mほどの断崖絶壁、正面は土居(土塁)と水堀で囲み、柵や塀で囲まれた、防御に優れた城でした。

その後、桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が討死にすると、徳川家康が長篠城を攻略し、徳川家の配下となります。

1572年、長篠城は武田信玄の三河侵攻で奪われ、武田家の配下となり、徳川領侵攻の拠点にされてしまいます。

同年の遠江三方ヶ原の戦いで、織田・徳川軍は武田軍に惨敗。けれども、武田信玄が病のため西上作戦を切り上げて撤退、その帰路の途中で信玄は死去してしまいます。

翌年1573年、家康は猛攻撃で長篠城を奪還し、武田軍の再侵攻に備えて長篠城を拡張し、家臣の奥平貞昌(おくだいらさだまさ)を城主に任じました。

奥平貞昌(とその父親)は桶狭間の戦い以降徳川に仕え、武田信玄が三河に攻めてくると武田家の傘下に加わり、信玄の死後、その死を家康に知らせて、徳川軍へ帰参しました。

そこで奪還したばかりの長篠城へ配属(武田軍との戦の最前線)されちゃったんですね。奥平貞昌はこの時21歳。妻を武田家に人質として差し出したまま徳川家へ寝返ったために、妻(当時16歳!)は処刑されています。

戦国時代の定めとしても、大名に仕える家臣たちは、自分たちの家を守っていくための駆け引きがあったんですね…。

そして1575年5月8日、約500の手勢で守る長篠城に、約1万5千の兵を率いた武田勝頼が(奥平家の離反に腹を立てて)城を囲み、長篠の戦いの火ぶたが切られたのでした。

徳川軍による武田軍からの長篠城攻防戦!

愛知県新城市にある長篠城本丸跡

長篠城の守備隊は500人ほどだったものの、200丁の鉄砲や大砲、十分な食料で、武田軍の猛攻に耐えていました。

けれども5月14日、武田軍の総攻撃で食糧庫を消失、城内の食糧はあと4、5日分となり、このままでは落城する、という絶体絶命のピンチに追い込まれてしまいます。

14日の夜、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は長篠城を救うべく、闇に紛れて城の下水口から増水した豊川を4Kmもぐって脱出、15日朝に脱出成功の狼煙(のろし)を上げると、そこから50Km以上離れた岡崎城へ走りました。

15日の午後に強右衛門は岡崎城に到着、家康と岡崎城に到着していた信長に長篠城の危急を訴えました。

翌日にも長篠に向けて援軍が出発すると知った強右衛門は、休養もしないですぐにまた長篠城へ引き返していきました。

16日の朝「援軍は来る」の印の狼煙を上げ、長篠城の対岸へ到着したところ、強右衛門は武田軍に捕らえられてしまいました。

磔になった強右衛門

愛知県新城市にある長篠城址史跡保存館にある鳥居強右衛門
長篠城址史跡保存館にて

強右衛門は武田軍から「援軍はこない、城を明け渡せと伝えて、降伏開城させれば命を助ける」と説得され、城の前に引き出されました。

けれども、強右衛門は「まもなく援軍がくる! あと2、3日堅固に守れ!」と大声で叫んだため、武田軍に磔(はりつけ)にされ、処刑されてしまいます。強右衛門その時36歳でした。

援軍が近いことを知らされた城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならぬと士気を上げて武田軍に応戦、武田軍が城の囲みを解く5月20日まで、城を守りぬいたのでした。

※強右衛門の後にもう一人の足軽が続いて長篠城を脱出、岡崎城へ向かったものの、そのまま岡崎城へとどまって、長篠城へ戻らなかったそうです。

彼はその後、武士として戻ることができず、農民になったそうです。長篠城から脱出して岡崎城にたどり着くだけでも、すごいことなのに…強右衛門と比べられてしまって、辛かったでしょうね。

強右衛門が長篠城の情報を伝えることができたのが、織田・徳川連合軍の勝因の1つになったような気がします。

強右衛門は命を懸けて主君に仕えた、武士の忠義心を評価され、信長が建立した強右衛門の墓が今も残されています。

強右衛門の子孫はその名を代々受け継ぎ、奥平家家臣として厚遇され、現在も家系が続いています。

長篠の合戦の決着は?

愛知県新城市にある長篠城址入り口

5月18日に織田軍3万と徳川軍8千の援軍は、長篠城から西に約4Km先の設楽原(したらがはら)に陣を敷きます。設楽原を横切る連吾川沿いに約2Km馬防柵(ばぼうさく)を築きました。

武田軍の重臣は決戦を回避するよう進言したものの、武田勝頼は5月20日、長篠城の砦に一部の兵を残し、主力部隊を設楽原に移動させました。

その日の夜半に、家康軍3000人は大雨の中、豊川を渡り、砦の背後の山中に潜み、21日早朝、長篠城の砦に残留した兵を奇襲、武田軍は次々に討ちとられていきました。

砦に上がった火の手と銃声に驚いた武田軍は、設楽原の織田軍へ突入を開始しました。

武田軍は攻撃を繰り返し、一進一退を繰り返したものの、馬防柵から3000丁の火縄銃の攻撃に武田軍の武将たちが次々に討死、午後2時頃には武田軍は撤退をしていきました。

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長篠城跡の現在は?

愛知県新城市にある長篠城址の土塁

長篠の戦いで大きく破損をした長篠城。城主だった奥平定昌は新しく新城城を築城し、家康の長女亀姫と結婚、長篠城は廃城になりました。

現在、長篠城の北東には高さ約5m、長さ約80mの土塁と、土塁に沿って高さ約6m、幅約10~15mのが残されています。

本丸跡前に少し広い平地があり、JR飯田線に分断されて南側の川を見ることができませんが、周りは桜やモミジに囲まれて、四季ごとに様々な姿を見せてくれます。

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さいごに

長篠城址史跡保存館のアクセスや入場料、長篠城の歴史と現在についてお伝えしました。

長篠城から、設楽原(したらがはら)の戦いになり、武田軍を破った織田・徳川連合軍は、その後は有利に武田領を侵攻していきます。

武田勝頼は信長との和睦を試みるも信長は応じず、家臣が次々と織田方へ投降して、行き場を失くした勝頼は自害に追いやられて、甲斐武田家は滅亡しちゃうんですよね。

※2016年の大河ドラマ「真田丸」は、武田家の国衆だった真田家が、武田家滅亡で乱世に放り出されるところから物語がスタートしましたね。

激しい攻防縁が繰り広げられ、歴史の舞台になった長篠城跡で、当時を想像してみてくださいね。

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