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関ヶ原の戦いの場所と現在が交差する!日本史を決定づけた日の決戦地や陣跡を訪ねて

岐阜県関ケ原の石田三成陣営地

天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いは、映画やドラマによく取り上げられる大戦(おおいくさ)。豊臣秀吉に忠誠心が強い石田三成と、天下統一の覇権を狙う徳川家康が激しくぶつかった争いです。

1600年9月15日、日本の名だたる武将が、徳川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍に分かれて命をかけて戦った合戦は、たったの6時間ほどで勝負がつきました。

現在、関ヶ原に残る古戦場跡は、死闘を繰り広げたなんて思えない、静かな日常の中にひっそりと残されています。

この記事では、関ヶ原の戦いの舞台となった決戦地や陣跡の現在をご紹介します。

歴史が息づく関ケ原の戦いの合戦地を巡って、武将の思いを体感してみましょう。

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関ケ原の戦いの場所の現在は?

岐阜県関ヶ原市の合戦地・島左近の陣地

関ヶ原の戦いのきっかけは?

「関ケ原の戦い」の背景には、豊臣秀吉の死後、政権を巡る後継者問題がありました。

秀吉の死後、五大老を中心とする体制が築かれましたが、権力の中枢にいた石田三成と徳川家康が対立、三成が挙兵します。

家康は迅速に全国の大名を動員し、石田三成が率いる西軍徳川家康が率いる東軍との間で関ヶ原の戦いが、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で展開されました。

戦いの結果、徳川家康が圧勝。家康は全国の大名に対して圧倒的な影響力を持つようになり、後の江戸時代の政治体制の基礎を築きました。

こうして、約260年間続く江戸時代の幕を開けることになったのです。

関ヶ原の戦いの石田三成陣跡

岐阜県関ヶ原市の合戦地・石田三成の陣地

西軍の大将・石田三成の陣跡は、笹尾山(山というよりは小高い丘という感じ)にあります。

決戦前夜に大垣城を出た石田三成は、関が原を一望できる笹尾山に本陣を構えました。ふもとには「三成に過ぎたるもの」と言われた家臣・島左近の陣跡もあります。

竹矢来(たけやらい:竹を交差させて作った囲い)や馬防柵が復元されていて、5分ほど山道を登った頂上にある展望台からは、石田三成が見た景色が広がっています。

豊臣家を死守するための戦いを挑んだ石田三成。けれども秀吉亡きあとの戦いに、豊臣秀頼は大阪城から外に出ず、徳川軍は大阪城を目指して進軍してきます。

誠実で忠義心の強い三成は、秀吉の遺言を守り、天下統一を目指す徳川家康を何としても止めたくて、ここで両者の意地がぶつかる決戦が繰り広げられました。

合戦当初は西軍が圧倒的優勢の陣形。開戦当初は西軍有利で進んでいたのに、小早川隊の裏切りによって状況が一変、西軍はどんどん追い詰められていきました。

※ふもとに「笹尾山駐車場」があります。決戦地は石田三成陣営地からすぐ近くにあります。

笹尾山・石田三成陣跡
住所:関ヶ原町関ヶ原4008

関ヶ原の戦いの決戦地

岐阜県関ヶ原市の合戦・決戦地

石田三成の本陣笹尾山を背にした決戦地。小早川秀秋の寝返りによって総崩れになった西軍は、ここで攻め込んでくる東軍を迎え撃ちました。

ただっ広い平原の中、前方と左右から追い込まれるのは、ものすごい恐怖感があったのでは?と思います。参戦した武将たちは40代が多く、中には武将の10代の息子たちや、70代の親もいたそうです。

今はのどかに田んぼが広がるこの場所で、激戦が繰り広げられましたが、東軍の猛攻に石田軍が挽回の余地なく壊滅、勝敗が決まったのでした。

現在は決戦地を示す石碑と、家康、光成の軍旗が立てられています。

関ヶ原古戦場 決戦地
住所:関ヶ原町関ヶ原1202
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関ヶ原の戦いの徳川家康最後の陣跡

岐阜県関ヶ原市の合戦地・徳川家康の陣営地

桃配山に陣を構えた東軍の大将・徳川家康は、戦況が把握できず苦戦にいら立って、石田三成本陣の正面に陣を進めて、全軍の指揮をとりました。(三成の本陣と直線距離で500mほどの場所です。)

この場所は合戦後「床几場(しょうぎば)」となり、家康自らが打ち取った武将の首実検が行われ、味方武将の論功行賞(手柄に応じて褒美を与える)を決める場になりました。

首を並べて、手柄の確認をしたあとは、女性たちが首を洗い化粧を施してから、埋葬していたそうです。武将たちは自刃しても首をとられないようにしてたのは、誰かの功績になるのが嫌だったんですね・・・。

思い返せば、本能寺の変で織田信長の首は見つかっていません。自害するにしても、死後に首が敵陣に渡るのだけは避けたかったのは、まだ生きてると思わせたいという思いもあったのかもしれません。

実際、島左近の首も見つかっておらず、生き延びたという説もあります。

家康最後の陣跡は陣場野公園になっていて、その端には「御霊神社」があります。

「関ケ原の合戦で幾千、幾万の将兵がこの地に屍をさらし、この中には子孫も絶え慰霊すら行われていない将兵が数多くいると思われます。その諸霊を祀るため、合戦380年を機として神社を建立する運びとなりました。」

たくさんの命が失われた場所。そして、戦いの裏には命の数と同じ悲しみがあったはずです。そして、この戦いによって田畑をめちゃめちゃにされ、そこからまた生きていくために田畑を耕した人たちもいたはずです。

想像を超える風景が広がっていたんでしょうね・・・。たくさんの悲しみが残る場所です。

徳川家康最後の陣跡
住所:関ヶ原町関ヶ原959-2

関ヶ原の戦いの首塚

岐阜県関ヶ原市の合戦の東首塚

関ケ原の戦いは東軍7万人、西軍8万人のぶつかり合いでした。西軍の戦死者は(定かではありません)3万人、東軍8千人と言われています。

徳川家康の命令を受けたこの地の領主竹中重門(豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の息子。西軍から寝返ったうちの1人)が、戦死した兵士を東西2つに分けて埋葬しました。

東首塚と書かれた朱色の門をくぐると、大きなスダジイ(どんぐりが鳴る常緑樹)の古木が立っています。(唐門と供養堂は昭和(1942年)になってから、名古屋の山王権現社から移築されたものです。)

しんと静まり返った木々の中で、たくさんの兵が弔われています。

岐阜県関ヶ原市の合戦の西首塚

西首塚は幹線道路からほど近い場所にあり、こちらも大きな木が立っています。

東海道本線の敷設工事の際にたくさんの白骨と刀が出土したそうで、かなり広い範囲で埋葬されていた(東首塚は6000坪、西首塚は7000坪だとか)ようです。

1793年に観音堂が建立され、先手観音と馬頭観音が安置されています。

合戦のあとに、敵味方関係なく弔うのは戦国時代の習慣で、敵であっても仁義を尽くして丁重に葬るという教えが、将来の太平の世を築く基盤になっていったんですね。

東首塚
住所:関ヶ原町関ヶ原908-3
西首塚
住所:関ヶ原町関ヶ原2236
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関ケ原でおきた戦いを学ぶ

関ヶ原市はまるごと古戦場と言っていいくらい、日本の運命が変わった場所です。

関ヶ原の戦いをじっくり学ぶなら、「関ヶ原古戦場記念館」でリアルな戦いを体感するのがおすすめです。

関ケ原町歴史民俗学習館

関ヶ原歴史民俗学習館

関ヶ原古戦場記念館の北側にある歴史民俗学習館は、関ケ原の戦い以外の、関ヶ原の歴史が展示されています。

関ヶ原は、672年におこった「壬申の乱(じんしんのらん)」で戦いの舞台になった場所でもあります。

壬申の乱は、大化の改新の中心人物だった天智天皇が亡くなった後、天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の子・大友皇子の間におこった、皇位継承をかけた戦いです。

当時は同母の兄弟で王位を継承することが慣例になっていて、大海人皇子が皇太子だったんですが、天智天皇が自分の子に王位を継がせようとしたことから、争いが起こってしまったんです。

天下分け目の決戦が1600年の関ケ原の戦い以前にも、関ヶ原で起こっていたというのは、なんだか不思議な因縁のような気がしますね。

関ケ原町歴史民俗学習館
住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28 
開館時間:9:30〜17:00
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)、12/29〜1/3
入館料:無料

笹尾山交流館

笹尾山の東側にある笹尾山交流館の「甲冑体験」では、戦国武将や足軽に変身することができます。

草鞋(わらじ)や刀など、付属品も全部ついていて、本格的な武将になることも。

スペシャル子供甲冑【徳川家康】は兜や甲冑で全7.3Kg、大人のプレミアム甲冑【石田三成】は全13.15kg、【本多忠勝】全16.85㎏…と、本物よりは軽いものの、かなりの重量になります。

武将姿で笹尾山に登ることも可能。戦国武将や足軽になりきって写真を撮るのも楽しい経験になること間違いなしですね。

笹尾山交流館
住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1167−1
開館時間:10:00〜16:00
休館日:毎週月火曜日(祝日の場合は翌平日)、12/29〜1/3
※12月~3月中旬は土日祝日のみ営業
甲冑体験の予約はこちら
入館料:無料
※無料駐車場:30台

関ヶ原観光交流館

関ヶ原の合戦に参加した武将たちの家紋スタンプ

JR関ケ原駅前にある観光交流館では、コインロッカーがあり、電動アシスト付き自転車を借りることもできます。

JR関ケ原駅前の観光交流館で史跡めぐりの地図を入手してから、古戦場跡めぐりがおすすめ。駐車場の場所も明記されています。

関ヶ原7武将ウォーキングガイドマップがあり、お気に入りの武将に関連する史跡をめぐるコースが用意されています。

  • 徳川家康(東):戦略と戦術でリーダーシップを発揮した東軍大将
  • 黒田長政(東):秀吉家臣だったが三成と対立、西軍の寝返り工作を行った功労者
  • 福島正則(東):秀吉家臣で三成と対立、三成挙兵時にいち早く家康に味方すると宣言した武将
  • 石田三成(西):豊臣家を守るために義理を通した西軍大将
  • 大谷吉継(西):三成との友情を貫いた盲目の武将
  • 島津義弘(西):戦いの勝負がついた後、敵中突破して生き残った武将
  • 小早川秀秋(西→東):三成と家康を天秤にかけて、土壇場で寝返って家康についた武将

道中に方向を示した誘導サインポールが設置されているので、迷うことなく史跡巡りを楽しむことができます。

観光交流館には関ケ原合戦の東西武将「家紋はんこ帖」が販売されていて、22人の武将の家紋ハンコを押すことができます。

各武将の働きや陣跡の写真とともに、ハンコを探して押していくのも楽しいですよ。

そのほか、「どん兵衛の東西セット」や家紋が入ったクッキーなど、ちょっとおもしろいお土産も揃っていて、見るもの全部欲しくなっちゃうかも?

関ケ原観光交流館
住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原598-4
定休日:火曜日(祝日の場合は翌平日)、12/25〜1/3
※無料駐車場:7台 
>>岐阜県関ヶ原町の観光情報はこちら【楽天たびノート】

※情報が変更されている場合もありますので、ご利用の際は必ず現地の表記をご確認くださいね。

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さいごに

関ヶ原の戦いの舞台となった決戦地や陣跡の現在についてお伝えしました。

関ケ原の合戦に参戦した各武将の陣跡は、場所を示す石碑がひっそりと建っているだけの場所が多いです。行きたい場所を決めてから、まわってみてくださいね。

関ヶ原古戦場に行ったら寄りたい、近くの観光地の記事もあります。ぜひご覧になってくださいね。
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