新東名高速道路にある「長篠設楽原PA(ながしのしたらがはら:愛知県新城市)」ってご存じですか?
上り・下りとも小型車30台ほどの駐車エリア、フードコートとショッピングコーナーが1店づつあるだけの、小さなパーキングエリアです。
長篠設楽原PA周辺は「長篠設楽原の戦い」で織田・徳川連合軍が武田軍と戦ったエリアで、下り側には織田信長本陣跡があり徒歩で行くことができます。
この記事では、
- 長篠設楽原の戦いの織田信長本陣跡
- 戦いの勝敗を決めた馬防柵
- 設楽原歴史資料館と信玄塚
についてご紹介します。激戦の様子を思い描きながら、のどかな風景を楽しんで下さいね。
長篠の戦いの織田信長本陣跡
長篠設楽原の戦いの経緯は?
桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ってから15年、今川領だった駿河は武田信玄の侵攻で攻め取られ、上洛を目指す信玄は徳川家の三河領へも侵攻を進めてきました。
1573年の三方ヶ原の戦いで、織田・徳川連合軍は武田軍に惨敗、家康大ピンチ!でしたが、信玄の病状が悪化し、甲斐へ撤退する途中で死去してしまいます。
それから2年後、信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川へ寝返った武田家家臣、奥平定正を討つべく長篠城を攻め、長篠の戦いが始まったのでした。
長篠城は籠城で耐えている間に、織田・徳川連合軍は設楽原に陣を張り、体制を整えて、武田軍と対戦したのです。
現在の織田信長本陣跡
標高134.5mの茶臼山山頂にある織田信長本陣跡へは、長篠設楽原PAの駐車場東側、階段を上っていきます。山頂には山住稲荷社が祀られています。
北側に秀吉軍、最前線の弾正山に徳川軍を配置し、ここから信長公が指揮をとったんですね。
信長の歌碑がありました。(信長の歌碑って珍しいですよね。)
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」
決戦前日の夜は雨が降っていて(梅雨の季節だった)、このまま雨が続けば火縄銃が使えない。けれども当日には雨が上がり、キツネの鳴き声が聞こえてきて、なんか嬉しいな~って信長の気持ちです。
前回は負けたけど、信玄は死んじゃったし、武田の騎馬隊封じに馬防柵も作ったし、火縄銃もあるし、今回は負ける気がしないぜ!っていう信長の気持ちが伝わってきます。
長篠の戦いの勝敗を決めた馬防柵
長篠の戦いの決着は?
1575年、決戦が行われた設楽原(したらがはら)。織田・徳川連合軍は3日かけて設楽原を流れる連吾川沿いに2キロにわたって馬防柵(ばぼうさく)を築きました。
設楽原での戦いは不利であると、武田信玄以来の重臣は進言したものの、武田勝頼は織田・徳川連合軍を打ち倒す好機と考え、決戦を決意、馬防柵に向かって突進しました。
信長の鉄砲隊は3段構え(連射ができない火縄銃で、3列に並んだ鉄砲隊が順番に前に出て撃つ)で応戦、武田軍は大きな被害を受け敗北、撤退を余儀なくされました。
この戦いで敗れた武田軍は、その後の織田・徳川連合軍の侵攻により、1582年に滅亡。戦国の流れを変える戦いは、織田信長の天下統一へ大きく進む戦いとなったのでした。
復元された馬防柵
のどかな風景が広がる、設楽原の主戦場。織田信長の軍勢が岐阜から駆け付ける際に、1人1本ずつ担いで持ってきた木材で作ったとされる馬防柵が再現されています。
馬防柵の背後が徳川軍の本陣があった場所です。ここが織田・徳川連合軍3万8千と、武田勝頼率いる1万5千が激突した激戦区、と言われても、想像もつかない風景が広がっています。
「つわものどもの夢の跡」と言わんばかりに、今はのんびりと穏やかな時間が流れています。
※馬防柵の見学者専用の駐車場はありませんので、邪魔にならない場所に駐車して、見学してくださいね。
設楽原歴史資料館と信玄塚
火縄銃がいっぱいの設楽原歴史資料館
設楽原歴史資料館には、長篠の戦いの経路や、日本一の規模の火縄銃や古式銃が展示されています。実際に使われていた火縄銃がたくさん並んでいると、迫力ありますよ。
槍や刀の時代から鉄砲の時代へ移り変わっていく中で、新しいものを取り入れる柔軟性が勝利をつかむんですね~。
鉄砲が伝来し、それを研究して日本で鉄砲を製造した鍛冶屋さんがいて、たくさんの鉄砲が作られて、鉄砲で戦いが変わり、時代が進んでいく…。
出土した火縄銃の玉や、武田信玄を討ったとされる伝説の鉄砲もあり、時代を見つめてきた戦国時代の火縄銃たちに圧倒されちゃいます。
日本一長い鉄砲(狩猟用)も展示されています。何をしとめるための鉄砲なのかわかりませんが、1人で持つことはできないくらいの長さの鉄砲って、面白いですね。
住所:新城市竹広字信玄原552
電話番号:0536-22-0673
開館時間:9:00~17:00
休館日:火曜日(祝日の場合は翌平日)・年末年始
入館料(税込):一般330円 小中学生100円
(長篠城址史跡保存館と共通券あり)
駐車場:あり(無料)
信玄塚と閻魔大王坐像
設楽原歴史資料館を出た南側に、信玄塚があります。
設楽原の戦いの戦死者を弔った2つの塚があり、武田軍を弔った塚が「大塚」、織田・徳川連合軍の戦死者の塚は「小塚」と呼ばれています。
武田信玄は長篠設楽原の戦いの時はすでに亡くなっていたのに、なぜ「信玄塚」と呼ばれるのかは諸説あるものの不明なんだそうです。
ここには「福来寺」というお寺があったんですが、明治時代に廃寺になり、福来寺で祀られていた石像のエンマ大王坐像が残されています。
作者の空道和尚は、武士が百姓や町人を苦しめる姿を見て心を痛め、武士の生活を捨てて仏門に入った人でした。
石像のエンマ大王像が重たくて、運ぶことができないと村人が相談すると、空道和尚は「私が運んでおくよ」と言われたんだとか。翌朝村人が見に行くと、ちゃんと運んであって驚いた、という昔話が残されています。
その後、空道和尚は裏山に穴を掘り、断食して念仏を唱えながら往生したと伝わっています。
エンマ大王像はとっても怖いお顔ですが、厄除けと病魔退治、健康・長寿のご利益を授けてくださるそうですよ。
さいごに
長篠設楽原の戦いの織田信長本陣跡、戦いの勝敗を決めた馬防柵、設楽原歴史資料館と信玄塚の付いて、お伝えしました。
時代の流れに遅れずについて行くのって大変なことだけど、そうすることで新しい何かを手に入れることができる、昔も今も同じですよね。
長篠設楽原の戦いの激戦区の場所は、現在はのどかな風景が広がる山里の中でひっそりとしています。
戦国時代の中で先進的な戦いとなった舞台へ、ぜひ行ってみてくださいね。
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