本能寺の変がなぜ起こったのか、今も歴史ミステリーの1つとして、議論されていますよね。
そして、本能寺の変で信長が亡くなった後、秀吉の時代があり、秀吉の家臣・石田三成と徳川家康の天下分け目の関ヶ原の戦いへと、時代は流れていきます。
この記事では、織田信長・信忠親子の菩提寺であり、関ヶ原の戦いの悲劇が伝わる血天井がある、岐阜崇福寺についてお伝えします。
歴史ミステリーは、わからないからおもしろいってところもありますよね。いろんな想像をしながら、崇福寺を巡ってみてくださいね。
岐阜市崇福寺は織田家の菩提寺
崇福寺(そうふくじ)は鎌倉時代に創建された、臨済宗妙心寺派のお寺です。織田信長が岐阜城に入った時に、信長の側室「吉乃」の位牌を崇福寺に移したことで、織田家の菩提寺となりました。
崇福寺の鐘と本能寺の変
崇福寺の梵鐘は「稲葉一徹(良道)寄贈」と書かれていました。稲葉一徹と言えば「春日局(3代将軍・徳川家光の乳母)のおじいちゃん」として知られています。
稲葉一徹は、斎藤道三の愛妾・深芳野(みよしの)の弟(とされる人)で、斎藤道三に仕えていましたが、道三と義龍との親子の戦いでは義龍に味方し、その後は織田信長、羽柴秀吉と主君を変えながら、上手く世渡りをして生きた人って印象です。
稲葉一徹の娘婿が明智光秀の重臣・斎藤利三です。利三は稲葉一徹の家臣を明智光秀の家臣として引き抜いたことがばれて、一徹は信長に訴えました。
信長は光秀に「引き抜いた家臣を一徹に返すように」と伝えたものの、光秀は拒否し信長が激怒、斎藤利三に切腹を命じました。本能寺の変4日前の出来事です。
利三は切腹せずに本能寺の変に参加、その後の山崎の戦いでも先方として戦ったものの、秀吉に捕縛され、六条河原で斬首されています。
明智光秀が本能寺の変を起こす1つのきっかけになったのかもしれませんね。
梵鐘はいつ頃寄贈されたものかはわかりませんが、稲葉一徹が織田家菩提寺に鐘を寄贈したのは、本能寺の変のきっかけを感じていたのかも?しれませんね。
崇福寺の血天井
織田信長の孫(信忠の子)・秀信は、清須会議で秀吉によって、わずか3歳で織田家の家督を継いだ三法師。その後、秀吉の思惑で、三法師の後見だった織田信雄に家督が譲られます。
成長した秀信は、秀吉の家臣として、美濃と岐阜城を与えられました。秀吉亡き後の関ケ原の戦いでは、石田三成に「勝利の際には美濃と尾張をお任せする」と勧誘されて西軍に加勢します。
やっぱり「尾張」を奪還したい思いがあったんでしょうね。けれども西軍は敗北し、秀信は岐阜城に立てこもりました。壮絶な戦いの後、最後まで残った家臣は切腹し、岐阜城は落城。信秀は降伏し、福島正則の助命によって、僧侶として高野山へ送られました。
崇福寺の天井は、岐阜城の天守の床板を天井板に使われています。一面血の海だったんだろうなと想像できる、黒ずんだ血痕が残る天井です。(写真↑が、血天井がある本堂です。)
崇福寺の非情成仏絵巻
お寺の中では、信長直筆の書状や肖像画などゆかりのものが保存されています。信長公の書「雪月花」は…戦国武将の手とは思えない、繊細な書体で、魅了されちゃいますよ。
そのほかにも、「非情成仏絵巻(つくも神絵巻)」も見ることができます。つくも神は、うち捨てられた古い道具たちに精霊が宿った妖怪で、人間をたぶらかして喜びます。
最後は仏様の力で、つくも神は仏教に帰依し、成仏するという物語の絵巻物は、現存する最古のもの。一見の価値ありです。
他にも、1700年ごろに作られた魯時計があります。「信長が愛用したポルトガル製の和時計」という伝承があったそうですが、年代的に合わない(可能性は低い)ようです。
土岐頼高の鷹の絵も残されています。「麒麟がくる」の中でも、美濃守護代の土岐頼芸が鷹の絵を描いていましたよね。頼高は頼芸の孫にあたります。
崇福寺のお寺の中は見どころ満載なので、ぜひお寺の中も拝観なさってくださいね。
崇福寺の御朱印は?
御朱印アーカイブ😌
— noris. (@norisnoris2) October 29, 2020
岐阜城、
崇福寺さん☺️
織田信長の側室吉乃の菩提所です☺️
本堂には関ヶ原合戦前に東軍の攻撃を受けた際の血天井、信長父子の石碑もあります😌 pic.twitter.com/Mocth3wb5G
崇福寺の御朱印は3種類あり、寺務所で授けていただけます。
- 南無聖観世音
- 南無延命地蔵
- 織田信長公菩提所
住所:岐阜市長良福光2403-1
電話番号:058-231-2613
拝観料:大人200円 小人150円
拝観時間:9:00~16:30
拝観休みあり(1/15・5/7・8/1・8/5)
信長父子墓所
本堂のそばにある木戸を潜り抜けて、奥に入って行きます。
墓所に向かう途中は、見事に整備されたお庭を歩きます。石の配置といい、砂の流紋といい、とっても素敵な枯山水。しばし、見とれてしまいました。
季節によって表情を変えるんでしょうね。花が咲く春や冬の雪の風景を見てみたいです。
その奥には、信長・信忠親子の廟所があります。本能寺の変が起こったあと、信長最後の側室「お鍋の方」によって信長と息子の信秀の遺品が崇福寺に持ち込まれ、埋められたそうです。
信長親子の葬儀は、本能寺の変の4か月後に京都の大徳寺で行われ、その時に使われたお位牌を納めた位牌堂が、廟の東側に建っています。
信長の長男・信忠は、本能寺の変の知らせを受けた時、京都・妙覚寺に滞在していました。本能寺へ向かう途中で信長の自害を知り、二条城にて籠城し、善戦するも力尽きて自害しました。
信長も信忠も、首は見つかっていないんです。信忠の首は二条城のどこかに埋まっているのかもしれないですね。
位牌堂の東側には、廃寺同然になっていた崇福寺を斎藤利匡(としまさ)が整備した、とされています。位牌堂の奥には、斎藤利匡一族の墓もあります。
岐阜市崇福寺の行き方は?
電車・バスでの行き方
名古屋駅からJR東海道本線で「岐阜駅」まで行きます。快速で約20分です。
岐阜駅から岐阜バス「市内ループ線《左回り》」で「長良川国際会議場北口」下車、徒歩3分です。バス停はJR岐阜駅の北側、11番から乗車します。岐阜駅から約20分くらいで到着します。
岐阜公園から長良橋を渡って歩いても、20分くらいです。
車で行く場合・駐車場は?
崇福寺の入り口横に、バス・乗用車(12台)用の駐車場があります。
崇福寺北側に「長良川スポーツプラザ」があり、その西側に斎藤道三のお墓「道三塚」があるので、車で回ると便利ですよ。
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さいごに
織田信長・信忠親子の菩提寺であり、信長ゆかりのものや、関ヶ原の戦いを伝える血天井がある崇福寺についてお伝えしました。
歴史って学校の授業では全然おもしろくなかったのに、今になって、ドラマを見たり、ゆかりの地を巡ったりすると、おもしろい!って思います。教科書の上では実感がわかないからでしょうか?
もしもお子さんが、歴史が嫌い・苦手なら、一緒にゆかりの地を巡ってみてもいいかもしれませんね。戦国時代だけでも得意になっちゃうかもしれませんよ!
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