愛知県清須市には、織田信長の出世の足掛かりとなり、本能寺の変で亡くなった信長の後継者を決める清須会議が行われた、清洲城があります。
平成元年に建てられた清洲城は、当時のデータが何も残っていなかったので、想像で作られた模擬天守。
かつては歴史を変える出来事が起こった清洲城が、どうして丸ごと消えてしまったんでしょうか?
この記事では、清洲城の歴代城主と歴史についてご紹介します。大きな歴史の流れと、その中での清洲城の役割を知れば、清洲城観光が楽しくなっちゃいますよ。
清洲城の歴代城主は?

清洲城には①織田信長以降7人の城主がいます。
②織田信忠:織田信長の長男。幼いころから信長の後継者とされてきたけれど、本能寺の変で自刀、当時25歳。信長同様、首は見つかっていません。
③織田信雄:織田信長の次男。映画「清須会議」では妻夫木くん扮する、ちょっとおバカなキャラクターでした。秀吉から三河への転封を命じられると、尾張から離れたくないと駄々をこねて流罪になります。
(赦免後は秀吉に出仕したり、家康へ転身したりしながら、晩年は悠々自適の生活を満喫して、京都で73歳で亡くなりました。)
④豊臣秀次:秀吉の甥っ子で、豊臣家2代目関白。秀吉の後継者とされていましたが、秀吉に嫡男・秀頼が生まれると、謀反の疑いをかけられ、切腹させられました。
⑤福島正則:母が秀吉のおばという関係で、幼い時から秀吉に仕えていましたが、秀吉没後は徳川家の大名になりました。関ケ原の戦いで勝利を収めた後、広島藩を拝領しました。
(家康死後、福島正則は広島城の雨漏りを無断修理したことから武家諸法度違反を疑われ、領地没収、隠居しています。64歳で死去。)
⑥松平忠義:徳川家康の4男。病のため28歳で死去。
⑦徳川義直:徳川家康の9男で、尾張徳川家の初代藩主。名古屋城築城の際に清須越しが行われ、徳川義直も名古屋城初代城主になりました。
大きな歴史の流れの中で、たくさんの武将や出来事の目撃者だった清洲城は、徳川家康に廃城とされてしまいました。
家康は信長を超える大名として、信長のものを壊したかった(残したくなかった)のかもしれませんね。
清洲城の歴史は?
織田信長の出世城

清洲城は1405年、尾張守護所だった下津城(稲沢市)の別廓として築城されました。1476年に下津城が焼失すると、清洲城に尾張守護所が移転、清洲城が尾張国の中心になっていきました。
稲沢市の下津小学校前には、下津城跡を示す石碑↑が立っています。
1555年以降に織田信長が那古野城から清洲城へ移り、本拠として居住しました。
織田信長は清洲城から桶狭間の戦いに出陣、家康との同盟(清洲同盟)も清洲城で結ばれています。約10年清洲城で過ごした信長は、1563年に美濃との戦いに備えて、小牧城へ移ります。
清洲城は若き信長公が、天下布武を実現させていくための足掛かりとなった城だったんですね。
清洲城は清須会議の舞台!

1582年、本能寺の変で織田信長が斃(たお)れると、清洲城で織田家の後継者を決める清須会議が行われました。
羽柴秀吉は信長の長男信忠の嫡子であり信長の孫にあたる三法師を、柴田勝家が信長の三男信孝を後継者に推して対立、結果は三法師が家督を継ぎ、叔父であり信長の次男の信雄、三男の信孝が後継人となりました。
けれども秀吉は6月の清須会議の決定を反故にして、10月には信雄を当主として主従関係を結んでしまうんです。三法師さん(織田秀信)は秀吉に利用されちゃっただけ、その後流転の人生を送ることになります。
関ケ原の合戦では西軍(石田三成)に味方して敗れ、高野山に送られたものの、祖父信長の高野山攻めが尾を引いて入山が許されず、出家が許された後も迫害を受けたり・・・1605年に亡くなったんですが、26歳で自害したとも伝えられています。
清須会議って、信長の息子たちの駆け引きもあったけれど、秀吉が天下人となるための知略が行われた場所で、結果的には織田家を守ろうとした会議ではなかったんですよね。
清須会議がきっかけで、秀吉と柴田勝家が対立し、「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で勝家と妻のお市の方(信長の妹)が自害へ追い込まれます。
その後は豊臣家と徳川家の対立となり、秀吉の死後、徳川家康が天下人となっていきます。
1610年、徳川家康が名古屋城築城を命じ、清洲城の資材が再利用されました。御深井丸(おふけまる)の西北隅櫓は清洲城天守の古材で作られたと言われています。
町の建物、神社や寺、五条橋まで、城下にあったものすべてが名古屋城下へ丸ごと移転する「清須越(きよすごし)」が行われ、尾張の中心が名古屋に移っていきました。
こうして、清洲城は波乱な戦国時代を見てきたものの、歴史の舞台から消えちゃったんですね。
現代によみがえった清洲城

「思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と歌われたほど、清須越でなにもかもが移転し、さびれてしまった清須ですが、東海道から中山道をつなぐ美濃路が整備され、「清洲宿」が置かれると、宿場町として賑わいを取り戻していきました。
現在も、将軍の上洛や大名の参勤交代の時に休泊所となった清洲宿本陣跡が残っています。
清洲城は町制100周年を記念して、平成元年に鉄筋コンクリートで建設されました。当時の外観や規模の資料が残っていないため、すべて想像で作られた模擬天守です。
清須市の清洲城…同じ読み方なんだけど漢字が違うので、ややこしいですね。平成17年に西春日井郡西枇杷島町、清洲町、新川町が合併して「清須市」になったんです。
江戸時代初期に描かれた「信長公記」では「清洲」、「三河物語」では「清須」となっていて、どちらも正しいようですが、パンフレットは「清洲城」に統一されていました。
清須市の清洲城は、歴史的な重みは感じられないけれど、確かに実在したお城。今はただ、その出来事を伝える役目を果たしています。
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さいごに
愛知県清須市にある清洲城の歴代城主と歴史についてお伝えしました。
歴代城主を見ていると、人生を全うした大名って少ないような…清須会議で柴田勝家に推された織田信孝も、秀吉と対立して最期は自害させられています。大変な時代だったんですね…。
歴史を知れば、観光も楽しくなりますよ。ぜひ清洲城にお出かけくださいね。
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