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清洲城と清須会議~信長の出世城で何が決まり誰が得をしたのか?わかりやすく解説

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大河ドラマや映画で描かれる「清須会議」。名前は知っていても、「誰が何を争ったの?」「その後どうなったの?」がよくわからない——という方も多いと思います。

清須会議は、表向きは「織田家の後継者を決める会議」でしたが、実際には羽柴秀吉が天下人への足がかりをつかんだ場所でした。

この記事では、清洲城の歴史を軸に、清須会議の全貌と「その後」をわかりやすく解説します。

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清洲城とはどんな城?

清須市清洲城

清洲城は1405年、尾張の守護・斯波義重によって築かれました。もともとは稲沢市にあった下津城の別郭でしたが、1476年に下津城が焼失すると、清洲城が尾張の中心となっていきます。

そして1555年、織田信長が那古野城から清洲城に入城します。

当時の清洲城には天守はなく、二重の堀に囲まれた敷地に居館があるだけでした。でもこの質素な城から、信長は日本の歴史を動かす2つの出来事を起こします。

ひとつは桶狭間の戦い(1560年)。 清洲城を出た信長は、2万5千とも言われる今川義元の大軍に対して、わずか2,000〜3,000の兵で奇襲をかけ、義元を討ち取ります

この勝利が、信長の天下統一への大きな一歩になりました。

もうひとつは清洲同盟(1562年)。 徳川家康との軍事同盟がここで結ばれています。この同盟があったからこそ、信長は西(美濃・京都方面)に集中して戦えるようになりました。

約10年を清洲城で過ごした信長は、1563年に小牧山城へ本拠地を移します。「信長の出世城」としての役割は、ここで終わります。

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清須会議とは何だったのか

清洲城

1582年6月、明智光秀が本能寺に信長を襲います(本能寺の変)。信長と、長男・織田信忠は共に亡くなりました。信忠はわずか25歳でした。

光秀を山崎の戦いで破った羽柴秀吉は、一気に織田家内での主導権を握ります。そして同年6月、清洲城で「清須会議」が開かれました。

誰が集まったのか

清須会議の参加者は4人です。

  • 柴田勝家(信長の筆頭家老・最長老格)
  • 羽柴秀吉(山崎の戦いで光秀を討った・勢いに乗っている)
  • 丹羽長秀(中立的な立場)
  • 池田恒興(信長の乳兄弟・地元・尾張との縁が深い)

何を争ったのか

表向きの議題は「織田家の後継者をどうするか」でした。

  • 柴田勝家は信長の三男・信孝を推した
  • 羽柴秀吉は信長の長男・信忠の嫡子(信長の孫)・三法師(当時3歳)を推した

勝家が信孝を推したのは、自分の影響力を残したいから。秀吉が三法師を推したのは、「幼い子どもなら実権は自分が握れる」という計算があったからです。

結果、三法師が後継者に決まりました。

一見、秀吉が「信長の血統を大切にした」ように見えますが、実際には自分に都合の良い3歳の子どもを担ぎ出しただけ。

清須会議は「織田家を守る会議」のふりをした、秀吉による天下取りへの第一手でした。

清須会議のその後——誰がどうなったか

清須会議が大きな起点となった方々のその後は…。

三法師(織田秀信)の流転

後継者に選ばれた三法師(織田秀信)は、その後ずっと秀吉に「利用される存在」として生きることになります。

関ヶ原の合戦では西軍(石田三成)に味方して敗北。高野山へ送られましたが、かつて信長が高野山を攻めた因縁があって入山も許されず、出家後も迫害を受け続けました。

1605年、26歳で亡くなっています。自害とも伝わっています。

清洲会議の主役として担ぎ出されながら、誰にも守られることなく終わった生涯でした。

秀吉と勝家の対立——賤ヶ岳の戦いへ

清須会議での対立は、翌1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いへと発展します。秀吉軍が勝利し、柴田勝家は妻のお市の方(信長の妹)とともに自害。

これで豊臣秀吉は事実上の天下人への道を歩み始めます。

信長の息子たちのその後

信長の息子でも、運命はまったく違いました。

長男・織田信忠は後継者として期待されていましたが、本能寺の変で父・信長と同じ日に25歳で亡くなっています。首は見つかっていません。

もし信忠が生きていたら、清須会議も天下の行方も全然違っていたかもしれない——と思うと、なんとも切ない話です。

次男・織田信雄は、映画「清須会議」でちょっとおバカなキャラクターで描かれていましたが、実際の信雄も秀吉から三河への転封を命じられた時に「尾張から離れたくない」とわがままを言って流罪になっています。

ただ、その後は秀吉・家康と器用に渡り歩き、京都で73歳まで生きました

三男・織田信孝は清須会議で勝家に推されながら後継者争いに敗れた後も秀吉への抵抗を続けますが、1583年の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると後ろ盾を失います。

秀吉に追い詰められて尾張・野間(現在の美浜町)で自害、26歳でした。

自害前に秀吉へ送ったとされる辞世の句が「名もなくて 生まれてきたら よかったに 織田の子となり 果ての悲しさ」——信長の息子に生まれたことへの悔恨が伝わってきて、切ないです。

信忠(25歳・本能寺の変)、信孝(26歳・自害)、信雄(73歳・京都で天寿)——同じ父を持ちながら、三者三様の末路です。信雄だけが長生きしたのは、「天下を諦めた」からかもしれません。

清洲城のその後——「清須越」と名古屋城へ

1610年、徳川家康が名古屋城の築城を命じます。このとき、清洲城の資材が名古屋城の建材として再利用されました。

名古屋城の御深井丸(おふけまる)西北隅櫓は、清洲城天守の古材で作られたと言われています。

さらに、城下町の建物・神社・寺・五条橋まで、すべてが名古屋城下へ丸ごと移転する「清須越(きよすごし)」が行われました。

思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と歌われるほど、清須はさびれてしまいます。

家康がなぜここまで清須を「消した」のか——信長が残したものを超えたかったのか、消し去りたかったのか。歴史のロマンを感じる話です。

その後、美濃路が整備されて「清洲宿」が置かれると、宿場町として再び賑わいを取り戻します。現在も清洲宿本陣跡が残っています。

今の清洲城を歩く

現在の清洲城は、1989年(平成元年)に町制100周年を記念して建てられた模擬天守です。

当時の資料が残っていなかったため、想像で作られたものですが、赤い橋と天守が五条川の水面に映える景色は絵になります。

天守内は信長ゆかりの展示があり、最上階からは清須市内を一望できます。

清洲城の周辺には清洲古城跡公園清洲公園があり、かつての清洲城の敷地がどれほど広かったかを感じながら歩けます。

公園内に立つ信長像の前に立つと、「ここから桶狭間へ出陣したのか」という感慨があります。

まとめ

清須会議は「誰が一番うまく立ち回るか」という、戦国時代らしい知略と駆け引きの場でした。

3歳の三法師を担ぎ出して実権を握った秀吉、それに敗れた勝家と信長の息子たち、そして会議の舞台となった清洲城が後に「清須越」で消えていく——すべてがつながっています。

大河ドラマで清須会議のシーンを見たあと、ぜひ実際に清洲城を訪れてみてください。「ここで歴史が動いたのか」という感覚が、きっとあるはずです。

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※情報が変更されている場合もありますので、公式サイトなどで最新情報をご確認くださいね。

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