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清洲城の歴代城主は?信長の出世と清須会議を見つめた歴史の舞台!

この記事では、愛知県清須市にある清洲城についてご紹介します。

清洲城といえば、織田信長の出世の足がかりとなった城として有名ですよね。でも、信長以外の城主のことはあまり知られていないかもしれません。

そこで、清洲城の歴代城主たちを紹介しながら、その歴史をたどってみましょう

大きな歴史の流れと、その中での清洲城の役割を知れば、清洲城観光が楽しくなっちゃいますよ。

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清洲城の歴代城主は?

清須市清洲城

清洲城の歴代城主をご紹介します。

織田信長:天下統一への第一歩

まずは、やはり織田信長から。

1555年、信長は清洲城に入城し、約10年間ここを本拠地としました。

清洲城から桶狭間の戦いに出陣し、今川義元を破った信長。この勝利が、信長の天下統一への大きな一歩となりました。

織田信忠:悲運の長男

信長の長男である織田信忠。幼い頃から後継者として期待されていましたが、本能寺の変で父と共に亡くなってしまいます。

わずか25歳という若さでした。信長同様、首は見つかっていません。

織田信雄:映画でおなじみの次男

織田信長の次男、織田信雄。映画「清須会議」では、ちょっとおバカなキャラクターで描かれていましたね。

実際の信雄も、秀吉から三河への転封を命じられた時、尾張から離れたくないとわがままを言って流罪になっています。

(赦免後は秀吉に出仕したり、家康へ転身したりしながら、晩年は悠々自適の生活を満喫して、京都で73歳で亡くなりました。)

豊臣秀次:秀吉の甥っ子

秀吉の甥で、豊臣家2代目関白の豊臣秀次

一時は豊臣家の後継者とされていましたが、秀吉に実子・秀頼が生まれると、謀反の疑いをかけられて切腹させられてしまいました。

福島正則:秀吉のおばの息子

福島正則の母は秀吉のおばという関係で、幼い頃から秀吉に仕えていました。

関ヶ原の戦いで勝利を収めた後、広島藩を拝領しました。

(家康死後、福島正則は広島城の雨漏りを無断修理したことから武家諸法度違反を疑われ、領地没収、隠居しています。64歳で死去。)

松平忠義:徳川家康の4男

徳川家康の4男である松平忠義。しかし、病気のため28歳で亡くなってしまいました。

徳川義直:尾張徳川家の初代藩主

最後の城主は、徳川家康の9男で尾張徳川家の初代藩主となった徳川義直です。義直の時代に名古屋城が築城され、清洲城は廃城となりました。

家康は信長を超える大名として、信長のものを壊したかった(残したくなかった)のかもしれませんね。

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清洲城の歴史:戦国時代の激動を見つめて

愛知県稲沢市にある下津城跡を示す石碑

清洲城の誕生

清洲城は1405年、尾張の守護であった斯波義重によって築かれました。当初は下津城(稲沢市)の別郭でしたが、1476年に下津城が焼失すると、清洲城が尾張の中心となっていきました

稲沢市の下津小学校前には、下津城跡を示す石碑↑が立っています。

織田信長の時代

1555年、織田信長が那古野城から清洲城に入城します。当時の清洲城には天守はなく、二重の堀に囲まれた敷地に居館がありました。現在の清洲古城跡公園も清洲公園もかつての清洲城内になります。

信長は清洲城から桶狭間の戦いに出陣し、今川義元を破りました。また、徳川家康との同盟(清洲同盟)も清洲城で結ばれています

約10年清洲城で過ごした信長は、1563年に美濃との戦いに備えて、小牧城へ移りました。

清須会議:織田家の後継者争い

清洲城

1582年、本能寺の変で織田信長が亡くなると、清洲城で織田家の後継者を決める清須会議が開かれました。

羽柴秀吉は信長の長男信忠の嫡子であり信長の孫にあたる三法師を、柴田勝家が信長の三男信孝を後継者に推して対立。

会議の結果、信長の孫・三法師が家督を継ぐことになりましたが、実際には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が実権を握っていきます

秀吉は6月の清須会議の決定を反故にして、10月には織田信雄を当主として主従関係を結んでしまいました。三法師は秀吉に利用されちゃっただけ、その後流転の人生を送ることになります。

三法師(織田秀信)は関ケ原の合戦では西軍(石田三成)に味方して敗れ、高野山に送られたものの、祖父信長の高野山攻めが尾を引いて入山が許されず、出家が許された後も迫害を受けたり…と散々。

1605年に亡くなったんですが、26歳で自害したとも伝えられています。

清須会議って、信長の息子たちの駆け引きもあったけれど、秀吉が天下人となるための知略が行われた場所で、結果的には織田家を守ろうとした会議ではなかったんですよね。

清須会議がきっかけで、秀吉と柴田勝家が対立し、「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で勝家と妻のお市の方(信長の妹)が自害へ追い込まれます。

その後は豊臣家と徳川家の対立となり、秀吉の死後、徳川家康が天下人となっていきます。

1610年、徳川家康が名古屋城築城を命じ、清洲城の資材が再利用されました。御深井丸(おふけまる)の西北隅櫓は清洲城天守の古材で作られたと言われています。

町の建物、神社や寺、五条橋まで、城下にあったものすべてが名古屋城下へ丸ごと移転する「清須越(きよすごし)」が行われ、尾張の中心が名古屋に移っていきました。

こうして、清洲城は波乱な戦国時代を見てきたものの、歴史の舞台から消えていきました。

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現代によみがえった清洲城

思いがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と歌われたほど、清須越でなにもかもが移転し、さびれてしまった清須。

その後、東海道から中山道をつなぐ美濃路が整備され、「清洲宿」が置かれると、宿場町として賑わいを取り戻していきました。

現在も、将軍の上洛や大名の参勤交代の時に休泊所となった清洲宿本陣跡が残っています。

現在の清洲城は、1989年(平成元年)に町制100周年を記念して建てられた模擬天守です。

当時の資料が残っていなかったため、想像で作られたものですが、戦国時代の激動の歴史を今に伝える大切な存在となっています

>>清洲城がある清須市の観光情報はこちら【楽天たびノート】

※情報が変更されている場合もありますので、公式サイトなどで最新情報をご確認くださいね。

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さいごに

清洲城の歴史を振り返ると、戦国時代の激動が目に浮かびますね。織田信長の出世城として、また清須会議の舞台として、清洲城は日本の歴史の重要な転換点に立ち会ってきました。

今回ご紹介した歴代城主たちの人生を見ていると、戦国時代の厳しさが伝わってきます。平和な時代に生きる私たちには想像もつかない苦難の連続だったのでしょう。

現在の清洲城は模擬天守ですが、かつてこの地にあった本物の城と、そこで繰り広げられた歴史に思いを馳せながら訪れてみてくださいね。きっと、新しい発見があるはずです。

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